トーク121
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日本一の居酒屋をつくりたいG…まず、赤塚社長のこれまでの歩みをお伺いしてもよろしいですか。  私は、1976年11月に一宮市で生まれました。そのころ既に父親は、バッティングセンター、ビリヤード、カラオケなど幅広く娯楽事業を展開しており、幼少のころから、身近に父親の仕事姿を見ながら成長しました。高校卒業後は、地元を離れ、明治大学に進学。大学時代は4年間、勉学の傍ら、居酒屋でもアルバイトを経験し、居酒屋の仕事のイロハを学ぶことができました。 そうこうしているうちに大学卒業が目前となったのですが、そのまま大手企業に入社するといった当たり前のレールを進んでいくことに疑問を感じていた私は、地元に戻り、父の経営するジャパン興業に就職することを決意しました。その時、私は22歳。「サービス業を一生の仕事にしよう」そして「日本一の居酒屋をつくりたい」と心に誓ったのです。G…その時の強い決意が赤塚社長の原点になったわけですね。 もうやる気に満ち溢れていましたね。でも、振り返れば、大学卒業後の3月に管理者養成学校 通称「富士の裾野の地獄の特訓」へ行き、礼儀作法などビジネスに必要な基礎能力を徹底的に叩き込まれたことが私の原点と言えるかもしれません。当時、受講料は30万円程度であったと記憶していますが、今の私にとっては、何千万円にも相当する価値ある特訓でした。そこで学んだことは今も輝きを失うことなく居酒屋経営に活かされています。 その後、情熱冷めやらぬまま、ジャパン興業に入社。社会人としての一歩を踏み出したのです。G…赤塚社長はその後、どのような行動をとられたのですか。 既に当社は、居酒屋チェーンのFC店を営んでいましたが、私自身「マニュアルを超えたサービスが提供できる居酒屋店をつくり、日本一になりたい」という気持ちが強かったので、チェーンを抜け、オリジナルで居酒屋店を開業しようと思いました。 こうした熱い思いは、ともすると、空回りして周りが白けてしまい、結局、長続きせず、一過性のものになってしまう危険性があるのですが、父親もその辺りをよく心得ていて、例えば、先ほどの「富士の裾野の地獄の特訓」も現在、私の右腕として活躍している人物と一緒に受講させ、私が孤立しないよう配慮をしてくれました。 こうした父親の支えもあって、私の考えに共感し、一緒に汗をかいてもらえる仲間を集め、当社オリジナル居酒屋第一号となる「炙一丁」を立ち上げることができました。ここで初めて、独自の考えに基づいたサービスを模索するようになったのです。人を動かすために必要なことG…お店は順調に経営できましたか。  私の考えに共感してくれる素直な仲間たちではあったのですが、いくら理想を掲げ、口酸っぱく言っても思ったように動いてはくれませんでした。こうした状況が続き、見るに見かねた父親が私にこうアドバイスをしてくれました。■いなせ寅"衛門 店内従業員が笑顔を絶やさず、生き生きと働くことができる環境がお客さまの喜び、元気につながる。7

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