トーク120
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「放火事件」が私の人生観を変えたG…まず、田中社長のこれまでの歩みをお伺いしてもよろしいですか。 私は、1967年5月3日に名古屋で誕生し、その2年後の1969年に父が名古屋市でトラック1台だけで創業しました。事業は順調に拡大し、私は父の働く姿を見ながら成長していきました。生まれは名古屋ですが、育ちは東京で、青山学院大学を卒業後、父の勧めもあり、取引先である東京の食品メーカーに入社しました。その当時は、自分の人生設計などを深く考えることは全くなく、まして父の会社を継いで大きくしたいなど、思いもよりませんでした。その食品メーカーには、5年程お世話になりました。そこでは、工場勤務やトラックでの配送なども経験し、また、本社で商品企画のような部署でも働きました。今思えば、いろいろな業務が経験できたお蔭で、現場の気持ちが分かるようになりましたし、現在につながる貴重な人脈も手に入れることができました。こうしてサラリーマン生活にも慣れてきたころ、父が「そろそろうちに戻ってこないか」と言ったので、未練はあったものの、父の言う通りに愛知に戻ってきたのです。G…こうして、田中社長がダイセーエブリー二十四に入社されたのですね。 はい。もう、父に逆らうことなく。自分の意思などは、皆無でしたね。「こういうものなのかな」という程度で、のんびりと働いていました。しかし、ある事件をきっかけに、私の立場、考えが大きく変わったのです。G…ある事件とは、なんですか。 私が父の会社に入社して間もなく、埼玉県幸手市にある関連会社「ダイセーロジスティクス」が放火され、大火災になったのです。忘れもしない1999年6月5日のことでした。新聞やニュースでも報道されました。「なぜ、こうした事件が起きるのか。何か問題があるのか。」と父は大変悩みました。また、同時に「このままでは、倒産してしまうかもしれない。」と会社の危機に直面したのです。のほほんとやってきた私でしたが、この事件をきっかけに「本気スイッチ」が入り、全身全霊でこの会社を何とかしないといけないという気持ちになったのです。G…その後、2000年1月に代表取締役社長に就任されたのですね。 はい。今までののんびりとした考え方は、ガラリと変わりましたね。180度ではきかない、360度で一回転しても止まらないぐらいです。人生観が大きくかわったというか。父はもちろん、自分にとってもショックな事件でしたが、振り返れば、私が社長業をやるにあたり、発火点になった出来事でしたね。 まず、社長になって、取り組んだことは、ビジネスモデルの再構築です。「ピンチの中にも必ずチャンスがあるはずだ」という強い気持ちは揺るぎませんでした。元々、深く物事を考えることが好きで「こうしたらうまくいくのではないか。」と考えを思いめぐらす日々でした。 ある時、当社の若い女性従業員が「社長、配送ルートが整理されていないので、一度見直しをさせてください。」と言ってきました。私はしばらく静観していましたが、女性従業員は忙しい業務の合間を縫って、コツコツと配送ルートの見直しをしていたのです。この見直しをきっかけに「これは、おもしろいぞ」と思わず叫んでしまうようなアイデアが思い浮かびました。「共同配送モデル」の構築G…そのアイデアとはどういったものですか。 それは、「共同配送モデル」の構築です。現在、当社のビジネスモデルとなっています。簡単に言うと、小売チェーンが持つ物流センターと食品メーカーの間に当社が入り、各食品メーカーの商品を取りまとめ、各物流センターにまとめて配送するものです。しかも、それだけに留まらず、正確な時刻表(冊子)も作成し、何時にどこに到着するかというのを誰でも分かるようにしたのが特徴です。■「中京スーパーハブセンター」内の様子「放火事件」が私の人生観を変えたG…まず、田中社長のこれまでの歩みをお伺いしてもよろしいですか。 私は、1967年5月3日に名古屋で誕生し、その2年後の1969年に父が名古屋市でトラック1台だけでデルとンを高めるす3

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