トーク120
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でした。しかしながら、実力さえあれば、織田信長、豊臣秀吉のようにどんな身分の人間でもトップになることができる超自由競争社会だったのです。 しかし、徳川家康が君主になり、江戸時代になると、こうした争いばかりの世の中ではいけないのではないかという機運が高まり、殺伐とした競争社会から競争否定の社会へシフトしていきました。その最たるものは、長子相続制度への転換です。この制度は、長男が優秀であろうとなかろうと長男に家督を相続させるというものです。こうして、世襲制を浸透させ、立身出世の機会を制限することで、争いをなくす社会を形成していったのです。つまり、自由な競争を排除し、進歩が止まってしまった社会と言えるでしょう。名君「綱吉」が開発した優れた政治システム 実際に、政治においても徳川家康は絶対君主でしたが、二代将軍秀忠の時代には、世襲制度が色濃くなり、もうすでに将軍はある意味でお飾り的な存在となっていました。そして、実際の政策決定は老中(江戸幕府の最高の職名。通常、有力な譜代大名の中から5名程度選任され、将軍に直属して政務一般を総理した。)の合議制にして、合議によって決まったことは、原則、将軍は認めなければいけないという体制になっていきました。 こうした体制を打破するのは非常に難しく、将軍の代が重なるごとに、強固な老中合議制の上に将軍権力が乗っかっているというスタイルが固まってきます。特に四代将軍家綱などは、子供の頃に将軍になったこともあって老中合議制の、がっしりした仕組みの上に乗ったお飾りのような存在になっています。 ところが、「生類憐みの令」などの革新的な政策で有名な五代将軍綱吉というのは自分のやりたい政治、理想とする政策に積極的に取り組むために、独自のシステムを開発します。それは、 「側用人(そばようにん)」 を登用することでした。 つまり、綱吉は老中と自分の間に側用人というワンクッションを置いたわけです。どういうことになるかというと、側用人はあげられてきた老中合議の結果を「上様はそのようなことは、たぶん認めませんよ。」と言って突き返すことができるのです。何度やってもそうなるので、結局将軍が「はい」と言うようなことだけが側用人を通して上にあがってくることになります。ということは、将軍が政策遂行の主導権を握れるということなのです。 老中と将軍の間に側用人を挟んだだけで、これだけ違うわけです。しかも側用人というのは、将軍が自分で選ぶことができました。一方で、老中というのは限られた譜代大名から選定されるため、実力のない大名が任命されてしまう可能性が非常に高いということになります。ところが、側用人というのは将軍の裁量で選べるのですから、わざわざ実力のない大名を選ぶようなことはしません。綱吉が創設した側用人で最も有名なのは柳沢吉保ですが、この人物はもともと綱吉が将軍になる前からの側近でした。 つまり側用人の登用というのは、実は大変優れた仕組みで、綱吉は、これまでの老中合議制の仕組みを将軍が自由に物事を裁量できるように変革してしまったのです。強いリーダーシップで「しがらみ」を排除する 本日のテーマである強い組織づくりには、実力主義の人事が基本であると冒頭にお話ししました。しかしながら、実際にそれをやり遂げることは難しいのではないでしょうか。「この人なら良い成果が出せそうだから、リーダーにしたい。」と考えても、年齢がまだ若く前例がないから、入社年度が遅いからといった「しがらみ」が邪魔をして、やりたいようにやれないのが現実です。 問題は、いかにこうした「しがらみ」をなくすかですが、これは組織の長たる者が強いリーダーシップと創意を持って、排除していく努力をすることだと思います。 そういった意味では、側用人を登用して、しがらみを排除し自分のやりたい政治を行った綱吉などは、現代においても良い見本となるのではないでしょうか。まさに歴史がそれを物語っています。 本日は、ご清聴のほど、ありがとうございました。青年重役会名君「綱吉」が開発した優れた政治名君「綱吉」が開発した優れた政治システム強いリーダーシップで「しがらみ」強いリーダーシップで「しがらみ」を排除する11

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