トーク118
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型に流し込む鋳造と、電気によって厚いメッキを積層させる電気鋳造は、まったく異なる製造方法でしたが、『なんだ、従兄を楽にできるものがすでにあるじゃないか。これを勉強すれば、従兄を助けることができるぞ』と感激したことを鮮明に覚えています。 しかし、まだ電気鋳造が一般的に普及していない時代、電気鋳造を行っている会社はありませんでした。そのため、学校を卒業すると、一旦、化学メーカーに就職しました。勤め始めて数年後のある時、会社から「今度、アメリカのメーカーが電気鋳造の金型を使って自動車の内装部品を製造するという話を聞いた。当社も電気鋳造を始めたいと思っている。君は化学が専門だから、電気鋳造の金型製造に取り組んでほしい。」と話がありました。以前から電気鋳造のことが頭から離れなかったので、その時、電気鋳造という言葉を聞き、全身が震えるほど嬉しくなりました。即、「私にやらせてください。」と返事をし、試行錯誤しながら、内装部品の金型製造に取り組みました。 今思い起こせば、私と電気鋳造は、出会うべくして出会った運命のようなものだったのかもしれません。 その後、体調を崩し、会社を辞め、仏壇製造業を営んでいた叔父の会社に就職しました。 そこでは、経理、職人さんまわり、配達を任され、時間があれば、仏壇の取り付けをするようになりました。これを機に、しばらくして独立し、江南に作業所を設け、徐々に電気鋳造の仕事をいただくようになり、エッチングで仏壇の金物(実用新案特許)をつくるようになりました。しかしながら、それほど仕事があるわけではなく、つくっても何度も直さなければならない状態が続きました。 そこに追い打ちをかけるように、1973年のオイルショックに襲われました。その影響もあり、電気鋳造の仕事が全くなくなってしまいました。しかしながら、『自分たちの生きる道は、電気鋳造しかない。電気鋳造の火を消してはいけない』との信念がありましたので、その間、電気鋳造の研究をある1人の社員に任せ、私と他の社員は、パチンコ屋の椅子洗いや修理、喫茶店の壁や椅子洗いなどで日銭を稼ぎ何とか窮地をしのぎました。こうした苦しい状況であっても、私は、その社員に「うちの柱が電気鋳造であるのは変わりない。オレ達が椅子洗いに行っても、お前だけは電気鋳造の研究を続けてほしい。」と励ましました。そんな期間が1年半も続きました。自然の流れに逆らわず、真剣に最善を尽くすことG…創業当時は、つらい時期が続きましたが、『電気鋳造の火を消してはいけない』という強い信念がこうした苦労を乗り越える力となったのですね。社長…少し余談になりますが、私は高校3年生の冬休みに、社会人になるにあたって精神面の鍛錬をしようと、岐阜県のある禅寺で2週間ほど修練したことがあります。世の中で生きるための様々な『教え』を、その禅宗の老師からいただきました。いわば、社会人になるためのエネルギーの蓄積ができ、考え方の根本を授かったといえます。KTX創業の道へ進むにあたっても、 また、つらい日々が続いた時も、老師の『教え』に助けられました。老師の『教え』を強く決意し実践したことも、今に至った大きなポイントになったと思います。 当社の社訓には、『自然』という文字を使っています。これは、私がこの世の中では、『天』が最大の演出者であると信じているからです。困難な出来事や仕事は天の恵みと考え、それから逃げずに正面から取り組むのです。そして、それを処理すると、『天』はより一段と困難な課題を与えます。つまり、天はいつになっても、努力すれば、必ず到達できるような課題を順々に与えるのであって、いきなりどうしようもないような困難な課題を与えたりしないのです。ただし、その場合、自然の流れに逆らわず、原理原則をわきまえて、真剣に最善を尽くすことが大事だと考えています。 先ほどのお話に戻りますが、オイルショックの影響がやっと鎮まると、1年半の間、研究を続けてきた成果が出始め、質の高い電気鋳造の金型ができるようになりました。それまでは、熱をかけると割れることも度々あり■対談中の山口営業企画部長(右)と小野木東江南支店長(左)ものづくりの追及こそ明るい未来を創造する~使命感を持って、『電気鋳造』の技術革新に挑戦~3

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