トーク117
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将校達が去った部屋は、家を失った方々に利用していただいたそうです。やっとの思いで営業を再開したのは、終戦翌年に開かれた花火大会の時で、それまで苦労を共にした実妹と手を取り合い、宿を守れた喜びを分かち合ったそうです。経営の秘訣はお・・・・・・・もてなしの心G…私も戦後生まれですから、当時の方々の本当の苦しみはわかりませんが、お話をお聞きするだけで目頭が熱くなってきました。 こうして、歴史の節目節目を力強く生き抜き業績を伸ばしておられる御社ですが、その秘訣を教えてください。若女将…十八楼は常に業績を伸ばしてきたわけではありません。 戦後、日本は豊かになりレジャーブームに沸きました。十八楼も昭和61年客室総数120、宴会場数16を持つ県下屈指の大規模旅館となり、老舗旅館というより大型観光ホテルへと移り変わってきました。しばらくは日本がバブル景気に踊り大型化が収益へと繋がりました。バブル崩壊前までは男性団体客が80%で、宴会と温泉があって宿泊できればお客さまは満足していただけました。 しかし、バブル崩壊とともに、状況は一変。景気の後退は旅館業を営む私どもに真っ先に影響を及ぼし、当地においてもダンピング競争が始まりました。1泊2食付7,000円のプランをご提供するケースも出て負のスパイラルが始まりました。 私が父に「旅館に入らないか」と相談されたのはこうした経営環境の中のことで、当時私は大学生でした。そのときは女将とまでは思っていませんでしたが、卒業後はとりあえず十八楼でお手伝いを始めました。 仕事を始めたころは、支配人がお客さまからお叱りを受け、お詫びしている光景をよく目にしました。その場は収まるのですが、また翌日も同じです。売上も落ち、十八楼は取り残された旅館として、当時のアンケート結果でも下位にランクされていました。 こんなとき、父から「2人(主人と私)で十八楼を好きなように経営して良い」といわれました。それは父にとっても、主人や私にとっても、さらに従業員にとっても人生を左右する重い言葉でした。 私は主人と2人で十八楼の強みを考えました。その答えは「ここにしかない歴史に裏付けされたブランド力」であることに気付きました。 従業員の方々にはお・・・・・・・もてなしの心を求め、十八楼の強みを説明し従業員自身に自信と誇りを持っていただき、感動を呼ぶサービスについて話し続けました。 同時に、客室や廊下の改装、料理や装飾の変更も少しずつ行い、ハード・ソフトの両面からこの町の歴史と文化に合った旅館作りを行ってきました。 最近では、大手旅行会社のアンケートやインターネットのアンケート等を分析してもお客さまの評価が目に見えて良くなってきました。 当時、老舗旅館というと古臭い田舎臭いというイメージで、伝統や品格といったイメージはありませんでした。今でこそ、グループや個人のお客さまが多くなり、本物の価値が求められるようになりましたが、改革時はその転換期であったように思います。G…サービス業の原点はお・・・・・・・もてなしの心であることがよくわかりました。私どももサービス業ですから身につまされる思いです。若女将…実は私自身、本当のお・・・・・もてなしとは何かと毎日悩んでいます。お・・・・・もてなしの意味を考えるとき、7年前の夏の日の出来事を思い出します。 80歳前後の男性が当館のロビーで大声を上げて泣く姿を目にしました。そして孫のような年の私に「父がお世話になりました」と深く頭を下げ、お礼の言葉を何度もおっしゃるのです。 男性は、振り絞るような声で話されました。戦時中その方が出兵する前夜に、父親から「昔、私は岐阜の旅館で宿の主に大変世話になった。そのご恩返しのつもりでお前の名前をつけた」と自分の名の由来を初めて教えて■対談中の山口営業企画部長(左)と奥村支店長(右)■伊藤 知子氏(若女将)ここにしかない歴史と風情が宝、お・・・・・・・もてなしの心がこの町の魅力~松尾芭蕉翁がこの地を訪れたときから始まった十八楼のあゆみ~3

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