トーク117
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岐阜市湊町にある十八楼は150年の歴史を持ち、その名前は松尾芭蕉に由来する。満足度の高い老舗旅館でありながら、収容人員5百名を超え大型観光ホテルとしての地位も不動のものとしている。客室稼働率が全国平均50%前後といわれる中、当館は70%を誇り自他ともに認める人気旅館である。 岐阜にしかない歴史と風情、そしてお・・・・・・・もてなしの心を磨く十八楼。鉄筋コンクリートの建物に格子戸の面を施し2004年岐阜市都市景観賞を受賞、120年前の土どぞう蔵をレストランとし2010年岐阜市都市景観奨励賞を受賞、そして今夏には1.5億円を投じ温泉施設を増築全面改装と岐阜の魅力を発信する仕掛け作りに余念がない。 宿泊客の客単価平均は1万4千円、この施設・サービスにしては思いのほか低い。女性の感性で、低料金の中お客さまを満足させ、事業を成功に導いている若女将にその秘訣を聞く。G…聞き手/営業企画部長 山口 貴生株式会社 十八楼 芭蕉翁は記で、この長良川の風景を「中国の景勝地である瀟しょうしょう湘八景と西せいご湖十景を一つにした様な眺め」と表し、それを望む水楼(水ぎわにある高い建物)を「十八楼」と名付けられました。そして、その誉れを後世に残すべく先祖が宿名を改名したのです。当館創業の万延元年は奇しくも1860年。「じゅうはちろう」と語呂合わせできます。偶然とは思いますが運命的なものを感じます。G…創業から150年以上の歴史を刻んでおられるとのことですが、その中には多くの出来事があったと思います。最も大きな事柄といえば何でしょうか。若女将…私はまだ働き始めてから間がありませんが、父である社長(以下、父と表記)から伊勢湾台風下での苦難を、祖母からは戦争の悲劇を聞きます。その中でも祖母の話は何度聞いても胸が熱くなります。 5代目当主の長女として生まれた祖母は5歳で両親を亡くし過酷な戦中戦後を生き抜きました。戦時中、当館南東200mに位置する岐阜公園には航空本部が置かれ、当館は将校宿舎として軍に接収されていました。岐阜から戦地ラバウル(現在のパプアニューギニア)へ向かう輸送機が多く、ラバウル小唄を皆が口ずさんでいたそうです。 誰もが困窮していた時代でしたが、祖母には一つだけ嬉しくて忘れられない思い出があると聞きました。それは将校からの贈り物です。ボロボロの靴を履く彼女を見た将校は、足のサイズを手で測り「待っていてね」といい、ラバウルへ飛び立ち無事帰還後、可愛い革靴をくれたそうです。親のぬくもりや愛情を強く求めていた彼女にとって、その思い出は生涯の支えとなったことでしょう。 しかし、次第に戦況が悪化し、昭和20年7月9日の岐阜大空襲により、一夜にして市内の約半数の建物が焼失。当館前の道は負傷者を乗せた大八車や当てもなく逃げる人の列が、三日三晩切れることがなかったそうです。その後1ヵ月余で終戦、祖母が17歳の時でした。ルルルポ企業株式会社 十八楼 若女将 伊藤 知子 氏■芭蕉の「十八楼の記」 【十八楼所蔵】松尾芭蕉と十八楼、150年の歴史が語るG…老舗旅館として名高い「十八楼」の歴史と名前の由来を教えていただけますか。若女将の伊藤知子氏(以下、若女将と表記)…十八楼は江戸末期の万延元年(1860年)、世にいう安政の大獄の年、岐阜湊町の宿屋「山本屋」が「十八楼」と改名したことにより誕生しました。今から約150年前のことです。 「十八楼」の名は、さらに遡ること1688年、江戸前期に松尾芭蕉翁が美濃の地(岐阜)で滞在したことから始まります。当時、すでに高名な俳諧師であった芭蕉翁が訪れ当地の美しい風景に心奪われ、名文「十八楼の記」を残されました。2

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